28.せんのかぜになって?負け犬の遠吠え:せんのかぜになって?世の中・・・ 「千の風になって」 「私のお墓の前で泣かないでください。」 「そこに私はいません・・・」 なんてのが流行っているのか? 最初にお眼に掛かった紹介文。 「ふぅ~ん・・・」 「何言ってんだか・・・あんまり興味ねぇなぁ~んなモンに」 その感想は今でも変わっていない。 それが、我が家に届く地方新聞では、先日なんて読者投稿の3分の1くらいが『千の風になって』なんて書いている。 読者投稿なんて下らないモンは、題名くらいで内容なんて詳しく読みもしないが・・・。 それにしても良く判らん。 「人が死んだ後って・・・」 丹波哲郎先生が生きていれば、「『大霊界』に行くに決まっているじゃないか!」ってあの大層な身振りと大きな声で断言されたんだろうが。 故人となった今、漸く丹波先生も『真実』をご存知になったのだろうが、既に人に伝える術はない。 ギリギリ『歯軋り』してるこったろう。 『歯』があればの話だが。 『死んだ後のこと』なんて誰も知らない。 奇跡的に生き返った人が良く『死後の世界』なんて口にするが、所詮は『臨死体験』である。 実際に死んだ訳じゃない。 なのに、何故この世の中には『死んだ後のこと』なんてのが、玉石混交諸説入り混じってゴロゴロしてんだろう。 ヒョットしてミンナ死にたくないのだろうか? 『国』や『社会』や『会社』や『夫』や『じじ&ばば』や『妻』や『テメエのガキ』なんてのに・・・ 『何時もブツブツ不満だらけの惨めな生活』なんかを永遠に続けたいってのか? 『永遠に死なない』って方がズッと悲惨じゃないか。 だから『宗教』なんてのが存在するんだろうが。 『新興宗教(日本国の宗教団体)』なんかが口にする言葉ってのは大概が決まっている。 「『寄付』が多ければ多いほど『上等なあの世』に行けますっ!」 「指示に従って『ポア』すればキット来世は幸せになれますっ!」 誰が保証するってんだ!そんなこと。 『そんなモン』に幾ら金を貢いだ処で、『あの世』には『クーリング・オフ』なんてない。 多分。 『泣き寝入り』いや『死人に口なし』だろう。 だから、宗教団体なんて下らない処は、何処でも『勝手な屁理屈』を『教義だ』なんて平気な顔をしている。 『教祖自信』が、『来世』や『生まれ変わり』なんてホントに信じていたら怖くてやってらんねえんじゃないのか?宗教団体(あんな出鱈目)なんか! まぁ。 信じる信じないってのは夫々の自由だから私の知ったこっちゃないが。 前々回かな? 「我が家は基本的に宗教は禁止されてる」って書いたのは。 だから私は、あんまり細かい宗教毎の『教義(屁理屈)』なんてのは良く判らないし知りたくもない。 でも世界3大宗教でも『輪廻転生』なんて想定してるのは『仏教』くらいじゃなかったか? 『キリスト教』なんて死んだら終わり。 何とかって『大天使』が『ラッパ』を吹くと『この世』の終わり。 それまでズ~ッと『死んでいた人(?)』が皆ムクムクっと起きだして『最後の審判』を受けるんじゃなかったっけ? そこで『選別』されて『天国行き』か『地獄行き』の片道切符を貰う。 決して『この世』に生まれ変わったりなんかしない。 『キリスト教』と兄弟分の『イスラム教』もオンナジ様なもんじゃないのかなぁ。 『仏教』だって『輪廻転生』なんて言っちゃいるが、『究極の目的』って「『輪廻の輪』を断ち切って『空』になる『解脱』」だろ。 『天』なんてのは、『人間(道)』『畜生(道)』なんかと同じ『六道』の一つに過ぎない。 『解脱』するためには『天』からもオサラバしなきゃなんねえハズだ。 まぁ『天(界)』に行きゃ『解脱』し易いって読んだ気もするが。 いや、『天』が『酒池肉林』なんて世界なら、私は絶対に『解脱』なんかしない。 そんな『外道』の考えを持つ私なんかは、キッと『天』なんてトコには永遠に行けねえんだろうな。 でも『天』に相応しい『聖人』なんてのが『酒池肉林』に放り込まれたとしたら? ・・・『地獄』だろうな。 万が一にも『酒池肉林』なんかに嵌まったが最後、再び惨めな『人間(道)』に落とされる。 最後の『罠』。 『仏』の世界も厳しいってとこか。 いや『天』って『酒池肉林』なんかじゃなくモット『清浄な場所』なんだろうか? 若しそんなトコなら行きたくもない。 なんて私は既成宗教に『望み』なんて一縷も抱いていない。 だが、一応我が家にも『お墓』があるんで『ご先祖さま』には『お供え』なんてのをしている。 『何回忌の法事』なんてのも『お寺』に頼んでやっている。 『儀式』なのだから仕方がない。 「『お墓』では走っては駄目!転んだら如何するの!」 「『お墓』からモノを持ち帰ったら駄目!」 『お墓』には『禁忌』が沢山ある。 『人権問題』の観点から『塩をまく』なんてのをしなくなった『お寺』もある。 『環境問題』の観点から『前にお供えして枯れた花』を持って帰れって『墓地』もある。 私は『葬儀』を手伝ったり、『墓地』から帰ったりした時には頭から『塩』をかぶる。 近所の眼があるんで『前にお供えして枯れた花』は持ち帰るが、決して『我が家の敷地』には入れない。 『迷信』だと云われようが『蒙昧』だと云われようが・・・。 『彼岸』と『此岸』はキッチリと区別する。 日本民族の伝統に根ざした『精神』じゃないか。 今の下らない『世迷いごと』で、そんな信条を曲げたくない。 これも『儀式』である。 『祖母』と『母』の葬儀を続けて出した親父が良く溢していた。 「俺が死んだらキレイな小川に流してくれりゃいい。」 でも、そんなことすりゃ『死体遺棄罪』でショッピカれる。 泣く泣く『葬式』を出した。金もないのに。 『母』を亡くしたとき・・・ 「生きてるうちには結局何もしてやれなかった」 ズッとそう考えていた。 だから、糖尿病や高血圧の親父が「『牡丹餅』が喰いたい」って言えば直ぐに買ってきた。 『医者の言い付け』を守って『寿命』を数年延ばすよりは、『生きているうちに好きなことをして、好きなモノを食べれば良い』って親父共々そう考えたのだ。 朝未明に亡くなった親父の顔は実に『穏やか』なものだった。 ガキの頃には酷く『怖がり』だった私であるが、今は、夜中に『墓地』に行くのが全然『怖く』なんかない。 『祖母』や『母』や『父』がいるのだ。 『懐かしく感じる』ことはあっても、『怖い』はずがない。 そして・・・ 『亡くした人は二度とは戻らない』 その現実を私は決して誤魔化したりはしない。 だから、私の祖母や両親は、決して『千の風』になって飛んで行ったりしない。 みんな『お墓』の中にも居るのだ。 『墓参り』や『法事』なんて『儀式』の形を借りて、残された者が夫々に『想い出』を蘇らせる。 だから私や家族は祖母や両親を決して忘れはしない。 『如何して人は死んだ後のこと』なんて考えるのだろう。 私は・・・ 喩え後1年しか、1ヶ月しか寿命がないって時でも、 その残りの人生を一所懸命に生きていたい。 そうでなきゃ、産んで大事に育ててくれた『母』や『父』に何て言えば良いんだ? 『死んだ後のこと』なんて『千の風』になろうが『お墓』にいようが如何でも良い。 私の祖母や両親は私の中にいる。 それで充分じゃないか。 |